コラート・風のガーデン リスの森

2022年3月、富士山の麓からコラートに移住

ミャンマーに移住するまでの経緯

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ヤンゴン中心部


 


ブログのスタートにあたり

私の43年のプロフィールですが少し長くなりました。

 

18歳、地元の高校を卒業して自動車整備工として自動車ディーラーに入社した。

20歳で、新しくオープンする店の工場長として立ち上げメンバーに任命された。

1年後、整備から新車のセールスマンに挑戦し売れなくて挫折した。社長は本社に戻って来いと言ってくれたが既に退社の決心をしていた。

22歳、社員20名程の製造メーカーに転職した。

若い32歳の2代目社長のアシスタントのような業務だった。従業員の給与計算、仕入れ交渉と請求書チェック、新規開拓の飛び込み訪問。社長室の隣には私の部屋も作ってもらった。

忙しい時期には協力会社に出向して製造の応援もした。

25歳、安定したそこそこの企業への就職を目指した。住友グループの企業に入社出来た。

配属は品質保証部で新規開発車両の評価実験をする業務になった。6ヶ月間の評価実験の業務を習得しトヨタ自動車の最前線に私1人送り込まれた。

4年半、毎日新車の製造不具合の調査をした。

その頃、トヨタかんばん方式は究極の物流システムと言われビジネス書籍がたくさん出版されていた。でもそれ以上にトヨタの素晴らしいところは新規プロジェクトの組織作りだった。

一時期、新規プロジェクトの構築ノウハウと言う書籍を私が出版しようか?とも考えた。自動車メーカーと言うところは新しい技術や部品の開発が日々行われ次々と新規プロジェクトが出来る。

私は住友グループトヨタでたくさんの貴重な社会勉強が出来た。

27歳の頃、現在のトヨタの社長がトヨタに入社してきた。仲良くなっておけば良かったと後悔

その頃はヒラ社員でありながら特権待遇だった

30歳、またも転機が来た。

HONDAのディーラーからのヘッドハンティングだった。1年ほど考えて20歳の時に挫折した新車のセールスに再挑戦した。6月に入社したのでその年の販売実績は公にはならなかったが

翌年1〜12月新車の販売実績は中部でトップ、全国で7位、HONDAから表彰された。

その翌年は所長代行、

32歳.本店の所長になり、会社と家庭と趣味の10年の目標をほぼ3年で達成してしまった。

そして、ストレスによる心臓発作「安定時狭心症」2年ほどニトロを手放せれなかった。

35歳、その時、これだけ仕事をしても60歳で失業するのかと考えた、

これだけ必死にするなら自分のことをもっと考えようと思い常務に退職の相談をした。

翌日、社長、常務、営業部長が来た。

それから約2年後に退職した、

あとで考えたら私の10年目標は所長で終わっていた。役員を目標にしていたら違う人生だつたかも知れない。

41歳、個人事業で車屋を始めた。

新規開拓や車のあらゆるノウハウはあった。

そして経理労務の経験もあった。

直ぐに得意先の社長からロータリークラブへの入会の誘いがあった。

50歳、本業を犠牲にしながらロータリークラブの奉仕活動を9年、そして幹事役もさせていただいた。 

そこで国際奉仕の志を学んだ。 ミャンマーに特化した活動をしたいと申し出てロータリークラブを退会した。

55歳、JICAの青年海外協力隊の支援団体にも誘われて所属し理事になっていた。

名古屋にある日本ミャンマー友好協会の理事にもなった。

そんな頃、ミャンマーが軍事政権から民主化に移行しだした。

バンコクに来ていた時、緊急ニュースが飛び込んだ、タイとミャンマーの陸路国境が開通すると聞き瞬間的に思った、閉ざされていたミャンマーのためにこれから何が出来るか?

タイを駆け巡っている場合ではないと思った。

それから約10年かかった。

61歳、会社の日常業務を行っている限り自分の考える国際協力はできないと判断した。

個人事業から始め株式会社にして自社のブランド商品も販売していたが、2019年にそれら全てを譲渡し会社を清算した。 

2019年に国際協力のための団体、特定非営利活動法人NGO JAPANを設立しミャンマーに移住した。 

ミャンマーではNGOの名称は法人登記ができなくてNPO JAPAN ,Inc.を設立した。

62歳ミャンマーに来てちょうど1年間、ミャンマーをリサーチした。

7月からいよいよ本当の支援活動がスタート出来る。

それと同時に、ミャンマーに興味ある日本の方々にミャンマーの情報をお知らせしたいと考えこのブログを始めることにしました。